南泉一文字本體資料匯總
• 年代:13世紀鐮倉中期。 • 流派:備前福岡一文字。 • 刀工:磨上無銘無法確認,推測是吉房。 • 重要文化財(舊國寶)指定日:1954年3月20日,番號1719。 • 所屬:名古屋徳川黎明会(德川美術館)。
【作風】 • 形状:鎬造り、庵棟、反り浅く、小切先猪首ごころとなる。 • 鍛え:小板目つみ、鮮明な乱れ映りが見事である。 • 刃文:児手柏、大房の重花丁子乱れ、匂口深く、足・葉盛んに入り絢爛たる出来である。 • 鋩子:浅く乱込み僅かに返る。 • 茎:大磨上げ、茎尻切り、鑢目は勝手下り、目釘孔三、無銘。
【法量】 • 刃長:2尺0寸3分(61.5cm) • 反り:6分(1.8cm) • 元幅:9分5厘(2.8m) • 先幅:7分(2.0cm) • 元重ね:2分(0.6cm) • 先重ね:1分5厘(0.45cm) • 茎長さ:5寸2分(15.5cm)
(一) 由緒と傳來
1.『享保名物帳』(1719) 的各種寫本及其他
◎『詳註刀剣名物帳』(大正二[1913]年)
尾張殿(名古屋徳川侯爵家) 南泉一文字 摺上長貳尺貳寸三分【二尺三分之誤】 無代 昔此刀にて猫を切たる事あり、経山寺南泉の事に依て名けたる由、秀頼公の御物なり、慶安十六年三月廿八日二條城へ渡御の節秀忠公へ上る又拝領。
南泉の事は傳燈録に在り、慶安十六年とあるは誤りなり、慶長十六年 (1611) > 三月秀頼公二條城へ赴き家康公に對面す、此時南泉一文字と則重を贈ると徳川御實記にあり、是なるべし、其のち尾張義直へ賜りしものか、今も侯爵家に在り。← 這段勘誤『享保名物帳』上沒有。
『享保名物帳』……就那麼幾個字,兩個數據還都錯了Orz
◎『古今鍛冶名寄』(文化二[1805]年) ← 獻上本的寫本
南泉一文字 二尺三寸磨上ケ無代 此刀ニテ猫ヲ切リタル事有南泉僧ニ准シ名付由
◎ 『名物集』(嘉永元[1848]年) ← 本阿弥家調査記録的寫本
◎ 『刀剣名物帳』 (安政六[1859]年)
南泉一文字 スリ上 二尺三分 無代 尾張樣 昔此刀ニテ猫ヲ切タル事有南泉僧ニ名付シム推
国立国会図書館マイクロフィルム
◎ 『昔咄 : 抄録』(大正四[1915]年重版 ← 原書為1750年前後著)
▲ 南泉斬貓的公案出自『碧巖錄』(南宋・1125年)
⊙ 第六十三則 垂示云:意路不到,正好提撕。言詮不及,宜急若眼。若也電轉星飛,便可傾湫倒嶽。眾中莫有辨得底麼?試舉看。 舉,南泉一日東西兩堂爭貓兒,南泉見,遂提起云:「道得即不斬。」眾無對。泉斬貓兒為兩段。 宗師家,看他一動一靜,一出一入,且道意旨如何?這斬貓兒話,天下叢林,商量浩浩地。有者道提起處便是,有底道在斬處,且得都沒交涉。他若不提起時,亦匝匝地作盡道理。殊不知他古人有定乾坤底眼,有定乾坤底劍。爾且道畢竟是誰斬貓兒?只如南泉提起云「道得即不斬」,當時忽有人道得,且道南泉斬不斬? 所以道,正令當行,十方坐斷。出頭天外看,誰是個中人。其實當時原不斬,此話亦不在斬與不斬處。此事軒知,如此分明,不在情塵意見上討。若向情塵意見上討,則辜負南泉去。但向當鋒劍刃上看,是有也得無也得,不有不無也得。所以古人道窮則變變則通。而今人不解變通,只管向語句上走。南泉恁麼提起,不可教人合下得甚語,只要教人自薦,各各自用自知,若不恁麼會,卒摸索不著,雪竇當頭頌云: 兩堂俱是杜禪和,撥動煙塵不奈何。 賴得南泉能舉令,一刀兩段任偏頗。 「兩堂俱是杜禪和」,雪竇不向句下死,亦不認驢前馬後,有撥轉處,便道「撥動煙塵不奈何」。雪竇與南泉把手共行,一句說了也,兩堂首座,沒歇頭處。到處只管撥動煙塵,奈何不得。賴得南泉與他斷這公案,收得凈盡,他爭奈前不構村後不迭店。所以道:「賴得南泉能舉令,一刀兩段任偏頗。」直下一刀兩段,更不管有偏頗,且道南泉據什麼令?
⊙ 第六十四則 舉,南泉復舉前話,問趙州,州便脫草鞋,於頭上戴出。南泉云:「子若在,恰救得貓兒。」 趙州乃南泉的子,道頭會尾,舉著便知落處。南泉晚間復舉前話問趙州,州是老作家,便脫草鞋,於頭上戴出。泉云:「子若在卻救得貓兒。」且道真個恁麼不恁麼?南泉云「道得即不斬」,如擊石火似閃電光,趙州便脫草鞋,於頭上戴出。他參活句,不參死句。日日新時時新,千聖移易一絲毫不得,須是運出自己家珍,方見他全機大用。他道:「我為法王於法自在。」 人多錯會道,趙州權將草鞋作貓兒。有者道,待他云「道得即不斬」,便戴草鞋出去,自是爾斬貓兒,不干我事,且得沒交涉,只是弄精魂。殊不知,古人意,如天普蓋,似地普擎。他父子相投,機鋒相合。那個舉頭,他便會尾。如今學者,不識古人轉處,空去意路上卜度。若要見,但去他南泉趙州轉處便見好。頌云: 公案圓來問趙州,長安城里任閑游。 草鞋頭戴無人會,歸到家山即便休。 「公案圓來問趙州」,慶藏主道,如人結案相似,八棒是八棒,十三是十三,已斷了也。卻拈來問趙州,州是他屋裡人,會南泉意旨,他是透徹底人,祝+土著磕著便轉,具本分作家眼腦,才聞舉著,剔起便行。雪竇道:「長安城里任閑游」,漏逗不少。古人道:「長安雖樂,不是久居。」又云:「長安甚鬧,我國晏然。也須是識機宜別休咎始得。 「草鞋頭戴無人會」,戴草鞋處,這些子,是無許多事。所以道,唯我能知,唯我能證,方見得南泉、趙州、雪竇同得同用處。且道而今作麼生會?「歸到家山即便休」,什麼處是家山?他若不會,必不恁麼道,他既會,且道家山在什麼處?便打。
2. 轉手記錄:豐臣家→德川家→尾張德川家
◎『徳川実紀』(『台徳院殿御實記』) (天保十五[1844]年)
三月廿八日 大御所まづ御盃をつかはさる。其時左文字の御刀。鍋藤四郞の御脇差をひかせ給ひ。此外大鷹三聯。馬十疋をくらせらる。其御盃返し進らせらるゝとて。一文字の刀(南泉。)左文字の脇差を捧げらる。此外秀賴公よりは眞盛の太刀。黑毛馬一疋。金三百枚。猩々緋三枚。緞子廿卷進らせらる。
◎ 本多正純の書状 ← 出處未知
態申上候、 一御譲位、一昨日【中略】 一秀頼様、昨廿八日大御所様江御禮被仰上候、其様子の御事 一秀頼様御供に、織田有楽【中略】 一二條の御所にて大御所様へ御禮被仰上候事【中略】 一三献の御祝御座候而、御一献目ニ、大御所様御盃秀頼様へ参、 其時大御所様より大左文字の御腰物、鍋通御脇差被進候、 其外御鷹三居(鳥屋之大鷹)、御馬十疋被進、 其盃大御所様へ参候時、秀頼様より、 ●『一文字御腰物、左文字の御脇差』御進上被成候事 一高臺院様も、二條御所へ被成御座秀頼様御對面被成候事【中略】 三月廿九日 本多上野介正純
▲ 慶長16年3月28日に二条城で家康と秀頼の会見があった。 家康の家臣本多正純が、将軍秀忠付家臣への書状にその様子を記していた。 南泉一文字のことも書かれていたので、載せておく。 ただ、残念ながら、号はない。 ← 沒有寫號可能是因為那時候根本就沒有號「南泉」?
▲▲ 『左文字の御脇差』即聚樂左文字,也就是刀劍亂舞實裝的「太閣左文字」,與後來尾張德川家給南泉配對的朱銘左安吉(下述)不是同一個刃。「太閣」這個稱謂昭和時才出現,並非正式刀號。『當代記』上註明這口左文字是(豐臣)秀次隨一道具(意即秀次隨身物,也就是說,此刀是秀次的心頭好)。聚樂第原為秀次府邸,因而最初這口刀被記載為「聚樂左文字」。天正十九年(1591)豐臣秀吉因膝下無子,收侄兒秀次為養子,立為關白及家督。然而好景不長,文祿二年(1593)秀賴出生。四年秀次被控謀反,秀吉先命其出家,後賜死(切腹再梟首示眾)並誅殺全家,尸首被置於石櫃草草埋於河岸,遭洪水沖刷破壞(人稱畜生冢),生前府邸聚樂第也被拆除。通常認為秀吉是為(所謂的)親生子秀賴鋪路才藉口謀反,將秀次一族趕盡殺絕。秀次死後,這口刀在慶長十六年(1611)通過秀賴進上給德川家康。有這樣來歷的一口刀,秀吉是否親自過過手還有待商榷,就草草被設計成獻媚的猴子形象(又是不符合史實的戲說八卦式neta——給信長暖草鞋之類的爛梗,拿來惡搞沒什麼問題,但是你刀不是標榜要守護本來的歷史嗎?)來代表秀吉,無論對秀次還是秀吉,以及對歷史都缺乏最基本的尊重,可謂惡意滿滿——亦或者說是由於無知與懶惰/望文生義造成的惡意——個人認為「太閣左文字」的設計完全失格。 ▲▲ 南泉:太閣左文字?誰?不認識喵〜
◎『豊臣家御腰物帳』 (慶長五[1600]年~慶長十八[1613]年)
御太刀御腰物御脇指太閤様御代より有之分帳 一之箱(31口) 一一 なんせん刀 慶長十六年三月廿八日 大御所様へ被進之
◎『駿府御分物刀剣元帳』(元和二[1616]年)
「上々御腰物」 号or銘:なんせん一文字 進上者:豊臣秀頼
▲『駿府御分物刀剣元帳』は、家康の遺品分配リストである。
徳川家康は元和2年4月17日に病没した。
その際、家康の遺品が将軍秀忠と御三家(尾張,紀伊,水戸)に分配された。
刀剣も分けられて、どこへ渡すのかを記したリストが作成された。
それが『駿府御分物刀剣元帳』である。
「上々御腰物」の「上々」は家康の遺品刀剣の中でも「最も良いもの」を示す。
▲ 南泉一文字は初代藩主徳川義直の時期に将軍秀忠から贈与されて尾張徳川家に移り、今に至るのだ。← 應該是家康一死就分給了尾張家?
3. 押形
◎『光徳刀絵図集成』(『太閤御物刀絵図』) 寿斎本 (慶長四[1599]年 )
御物 ないせん 長さ二尺三分 一もんし
▲ 唯一一處記成「ないせん」而不是「なんせん」的文獻。但這本應該是最早的文獻?沒有斬貓一說是因為那時候還沒有編這個逸聞麼? ▲ 毛利本/中村本/大友本未收錄,石田本未知 (「享保名物帳」の意義と八代将軍徳川吉宗による刀剣調査 ) ▲「ないせん」の表記なら、普通は「内膳」をあてる。 当時は「″(濁点)」を書かないため、「ないぜん」は「ないせん」となる。 もともと「ないせん」で、「内膳一文字」だった可能性はないのだろうか? 「内膳」ならば、「内膳正」という官職名があり、鈴木内膳正のように人の通称で使われる。 ○○内膳が所有していた刀だから、「内膳一文字」。 これなら号としてよくあるパターンになる。 「ないせん」だったのが、途中で書き誤りがあって「なんせん」になって、「南泉」の字があてられ、猫を切ったことになった。 という可能性はない…だろうか…?
▲▲「刀劍亂舞」中的刀賬語音說是因為「ないせん」聽起來像「沒錢」所以改成「なんせん」,這個出處???……hmmm……而「内膳一文字」在「蜷川文書824豊臣秀吉遺物刀剣目録」中有記載,内膳一文字後來的去向??? 原引用認為内膳一文字就是南泉,但光憑蜷川文書不能100%確定吧,雖然可能性很大。
◎ 『本阿弥家押形集』 (明治十九 [1886] 年)
今村長賀的借寫。刃文畫得有點寫意……都不知道是第幾手寫本……而且南泉不是紀州德川家的。
4. 由緒的疑問
⊙『南泉一文字記』(寶歷十一[1761]年)
「室町家、軍府ニ在ルノ日、工ニ命ジテ之ヲ礪ガシム。壁ニ挂クルノ際、一猫児有リ。跳ッテ刃ニ触レ、断タレテ両段トナル。驚異シテ以テ神物ト為シ、乃チ南泉ト号ス。蓋シテ之ヲ普願禅師、猫ヲ斬ルノ話ニ取ルカ」
▲ 尾張徳川家の9代藩主宗睦 (1733-1800) は、家臣に『物吉記/南泉一文字記』を作成させている。 ▲ 足利将軍家があった室町時代には、猫は数が少ない高価な生き物であり、基本的に紐に繋がれて飼われていた。研ぎ師レベルの家で猫を飼っていたとは思えないのも、足利将軍家所有を否定する。 ▲ 猫を切ったから「南泉」なのではなく、「南泉」という号だから「猫を切った」とされた可能性もある、だろう。 『南泉一文字記』も他の名物帳も全て、江戸時代のものである。 実際に猫を切ったのを見た人が書いたものではない。 本当に猫を切ったから南泉なのかどうか、誰にも分からないのだ。 「南泉」という号だから、『南泉斬猫』から号を取ったと解釈され、猫を切ったと考えられたが実態だろう。 これが気になるのは、『光徳刀絵図』で「ないせん」という表記があるからだ。
【結論】 最早記載「なんせん」而非「ないせん」的文獻是1611年的『豊臣家御腰物帳』,最早記載斬貓逸聞的文獻是1719年的『享保名物帳』。「南泉」這個號的由來也許是這樣:「内膳? (ないせん)一文字」被記成了「南泉(なんせん)一文字」,讓人聯想起「南泉斬貓」的公案,於是編了個南泉一文字斬貓的故事,即先有號再有的故事,貓大概是沒斬過的?再然後為了附會是足利家的刀,尾張德川家9代藩主命人寫了篇『南泉一文字記』,說是室町時代就斬過貓。(足利家這塊金磚,哪裡需要哪裡搬XD)
(確実な)所有者:羽柴秀吉・秀頼、徳川家康・秀忠・義直→以後、尾張徳川家の藩主
(二) 尾張徳川家の蔵番号
• 拵は4つ。3つが現存。 • 延享:不明 • 文政:仁二ノ六十八(仁2―68)(脇差扱い)一一 名物 南泉一文字御脇指 無銘 長弐尺三寸半 • 鞘書:仁一ノ六十五(仁1―65)一一 名物 南泉一文字御脇指 無銘 長弐尺三寸分半 • 代金:無代
『文政元帳』では由緒・来歴の重要度で「仁義礼智信」に分けて、形態で「一、二」に分類。 「鞘書」は明治になってからの番号のようで、文政元帳の分類を継承。 家康が所有した刀であるため、最上級の「仁」分類。 二尺三寸のせいか、文政では脇差に分類されて「二」に入っている。 明治になってから、「一」分類となり、「刀」扱いになった。
◎ 世襲財産附属物目録 (出處 :『尾張徳川家における世襲財産附属物』)
• 号数:606 • 作品名員数等:刀 名物南泉一文字 無銘 一口 • 伝来:右昔此刀ヲ以テ猫ヲ截リタルコトアリ之ニ依リ南泉和尚猫ヲ切ルノ義ヲ取リ以テ名ケシト云豊臣秀頼之ヲ慶長十六年三月廿八日二条ノ城ニ於テ徳川家康ヘ贈リ家康又之ヲ当家初代義直ヘ譲与セラル義直又之ヲ二代将軍徳川秀忠ヘ呈ス其後再ヒ当家ヘ贈与セラレタルモノナリ • 保管場所:本所横網町
◎ 鑑査状一覧 (出處 :『尾張徳川家における世襲財産附属物』)
• 等級:2 • 番号:6558 • 名称:刀 南泉一文字作 無銘 一口 • 指定日:明治24年 (1891) 8月1日
等級は重要度(価値)のランクになる。 南泉一文字の等級は「2」。 等級「1」の刀は「来孫市郎作」と「正恒」の2振のみ。 南泉と同じ「2」には銘入の刀が6振、無銘が2振。 無銘で等級「2」は物吉貞宗と南泉一文字である。 備前長義(本作長義)の等級は「3」。 後藤藤四郎が「4・5」で鯰尾はランクが「5」以下なのか掲載されていない。(鑑査状の掲載があるのは等級「5」まで) ← 鯰尾等級在5以下大概因為是燒刀的關係? 備前長義のランクが家康所有の池田正宗(文政:仁1-1)や鳥飼国俊と同じである。
(三)拵と鐔
1.梨子地刻小サ刀拵 ー3代徳川綱誠所用
鍔:葵紋散秋草図赤銅鍔 笄:桐紋五双笄 小柄:桐紋三双小柄 小刀:銘相模守藤原政常
2.蠟色金霰小サ刀拵 ―3代徳川綱誠所用
鍔:波に露図赤銅鍔 笄:1と併用 小柄:1と併用 小刀:1と併用
▲ 南泉は二尺三分のサイズで尾張徳川では「脇差」に分類していた。 (にっかり青江が一尺九寸九分なので僅か四寸(約1.2cm)差) ▲「小サ刀」は大名が直垂・狩衣・布衣などを直用する時に用いた拵だそうだ。つまりは、儀式用の拵となる。 南泉は由緒の良い刀であるため、儀式に使われていたようだ。 狩衣の懐に入れられていた物吉と大小(セット)で使われたときがあるかも。 ただし、拵だけでなく南泉自体にも「小サ刀」と記してあるため、拵独自の名称ではない可能性もある。 ▲▲ 但『尾張徳川家における世襲財産附属物』中南泉并沒有標註為「小サ刀」而是標註為「刀」,同時又存在「小サ刀」這個分類 (見「世襲財産附属物目録」),是後來分類修改的緣故麼?
3. 金襴包刀拵 ―16代徳川義宜所用 (一說14代德川慶勝所用)
鍔:虫尽赤銅鍔 笄・小柄:蕨土筆図笄・小柄 銀小刀:銘壽命
金襴包刀拵については、資料によって尾張家14代慶勝が作らせたとする説 (『名物刀剣』) と、その子である16代義宜の所用とする説 (『徳川美術館の名刀』) がある。なお、義宜は18歳で早世しており、その後は父の慶勝が当主に復帰している。 ←『徳川美術館の名刀』多半是對的。
◎ 『徳川美術館の名刀』
▲ 為什麼16代要新做一個金襴包刀拵?因為15代在傳位給16代時只給了刀不給拵www (政務移交,儀式時還得爹來的關係?
▲ 這個小サ刀的儀式使用可能是尾張德川家的特例。
4. (遺失的?) 脇差拵 (出處 :『黎明会名刀図録』)
目貫:不定 鞘:黒塗 柄:黒鮫 柄巻糸:殿茶色 鍔:鉄の透かし
小サ刀拵と違って全体的に黒っぽく、物吉貞宗の拵に近い渋い色彩である。 鍔の「鉄の透かし」は下に載せた名物「残雪」のようだ。これが脇差拵である確証はないが、南泉一文字の鍔とされる「残雪」の使用が確認できる記述である。
◎ 『御腰物御脇指元帳』(慶安五[1652]年)
磨上無銘 一 南泉一文字御小サ刀 代不知 御拵有 大殿(2代德川光友)様より 御少サ刀拵二通 御目貫笄小刀柄赤銅紋金倶利伽羅龍 / 御目貫笄小刀柄惣赤銅紋桐 御脇差拵一通 御目貫赤銅色絵雨龍 ← 與『黎明会名刀図録』上記載的目貫不定不一致
是ハ寛文十二年(1672)子ノ三月廿五日被為進候
▲ 御脇差拵は物吉と同じ鐔がない合口拵か、もしかしたら、下に記した名物「曙・残雪」がこの拵の鐔だった可能性もある?かもしれない。 ただ、名物の鐔が付属していたら、拵の記述に添えるだろう。 そのため、鐔はなかった可能性も高いが、「小サ刀拵」の方も「鐔」の記述がないため、確証はない。 ▲ 梨子地小サ刀拵には、倶利伽羅龍の目貫、笄、小柄があったが、笄と小柄が流用されるか、失われるかして、蠟色金霰小サ刀拵の桐紋の笄・小柄が併用されるようになったのだろう。
▲▲ 但如果「梨子地小サ刀拵」和「蠟色金霰小サ刀拵」和『御腰物御脇指元帳』上記載的御小サ刀拵二通是同一件東西的話,為何會標註3代徳川綱誠所用,而不是2代德川光友所用呢?
5. 鐔
◎『刀剣名物記』(尾張徳川家の刀剣蔵帳 19世紀 江戸時代)
尾張様南泉一文字、長サ二尺三分、無代スリ上乱刃銘無、秀頼公より権現様江被進其後源敬様(義直)御拝領ノ由、此御拵カカル御鍔ハツレ雪に剣形、御腕貫穴アリ、三枚の鍔、残雪、曙、八橋ナリ
▲ 図録『家康の遺産』には「残雪・曙」の写真があり、家康所用の品とされている。
「八橋」は失われたのだろうか。
「残雪・曙」はともに丸形の鉄鍔で、金銀の装飾は全くなく、見た目は非常に渋い。
「御鍔ハツレ雪に剣形〜」と史料に説明が載るのが、「残雪」である。
「御腕貫穴アリ」の部分は、残雪にある2つの穴のことだろう。
(写真からの推測であるが、この2つの穴は後から空けられたように見える)
「腕貫」は「革緒」のことで、革緒は鍔につけて手首に通して使い、刀が手から離れないようにするためのものだ。
「残雪」は名物でありながら、実用的な備えがある。
家康らしい所用品であろう。
「曙」は古本阿弥とされ、当初はあったらしい布目象眼がほとんど落ちているとのこと。
布目象眼で検索をかけると分かるが、もとはかなりきらきらした鐔であったようだ。
家康や義直の時代にその象嵌が残っていたかどうかは不明。
きらきらが残っていたら、南泉の付属物としては似合いだったのだろうと思われる。
▲また、「残雪」の箱には、下の和歌が金蒔絵で記されており、号のもととなったとされる。「玉ほこ(鉾)の 道ある御代に ふ(降)る雪は むかしのあとぞ 猶残りける」(『風雅和歌集』巻第十五 雑歌上 法印覚懐)
6. 德川美術館歷次展覽中的其他附屬物
あけぼの就是5.提到的曙。
(註:海報中沒有刀袋紋樣)
(四)德川美術館展示記錄(2012年起)
• 2012.01.04~02.05 特別展「名物刀剣―宝物の日本刀―」 • 2013.06.01~07.21 企画展「備前刀の系譜」 • 2014.04.12~05.25 春季特別展「将軍からのおくりもの-儀礼と拝領-」 • 2014.07.26~09.28 企画展「天下統一 -信長から家康へ-」 • 2015.08.01~09.13 徳川美術館・蓬左文庫開館80周年記念夏季特別展「没後400年 徳川家康-天下人の遺産-」 • 2018.07.21〜09.02 特別展「名刀紀行―五箇伝巡り―」 • 2019.04.14〜06.02 特別展「徳川将軍ゆかりの名刀」 • 2019.06.08〜07.21 企画展「裂の美」(無本體,刀袋2種) • 2021.07.17〜09.12 夏季特別展「家康から義直へ」 • 2022.09.17〜11.06 秋季特別展「名物―由緒正しき宝物―」
(五)立繪
擔當:三杜シノヴ
本體切先畫得短了點,刃文也不完全吻合(畢竟不是畫押形),不過還是能看出算華麗亂刃。
3個刀拵,1個穿在身上(金襴包刀拵),2個拼一拼成了遊戲裡的刀拵(前半:梨子地刻小サ刀拵,後半:蠟色金霞小サ刀拵)。這個拼一拼有點隨便吧……
而且衣服——金襴包刀拵還是個大小二本差拵,小的那把配的是把左安吉的短刀。也就是說,有把左文字家的短刀穿得和泉喵一樣……想想左文字家那個畫風?♂️
▲ 朱銘左安吉的來歷:『金襴包脇差拵』が附属する刀――つまり南泉の脇差は、『短刀 朱銘 左安吉』である。本多家から初代藩主義直に献上され、三代綱誠が誕生した際、父光友が茎に「左安吉」と朱銘し、御守脇差として与えた累世相伝の一振りである。これも白糸威と同じく、子の守り刀として尾張家では扱われてきた道具だっただろう。
極化後袖的緒(連接大袖和胸鎧的帶子,雖然刀男大都不穿胸鎧)的配色可能是參考了金襴包刀拵的下緒(就是那根漸變色的帶子)。袖的種類是広袖(折冠),素懸威指如圖示那樣把鎧扎用革或線鏈接起來的方式。
極化後護甲部分多了草摺,但是只有兩片(不過大部分刀男立繪都只畫兩片。為了好看?← 其實並不。
手和小臂的護具部分,極前是普通的篠籠手(下圖)。極後可能是為了配合punk風的項圈(?),比起小臂護具和手甲連成一體的籠手來,更像是中世紀歐洲騎士盔甲,分為Vambrace(綠圈:小臂護具)和Gauntlets(紫圈:手甲)兩部分,其中手甲又和punk風的無指手套結合,手指關節處的金屬突起部分讓人想到Cestus (古羅馬拳擊用的皮手套),可能是為了體現貼合極道設定的街頭徒手格鬥技術?(可是你還拿著刀呢……
幾種常見的籠手類型。
戴Cestus的古羅馬青銅雕像。
▲ 在本丸博展出的跪坐圖,刀鍔上的肉球消失了,這預示著???
結果極化後對貓產生了身份認同(……),鍔上的肉球還在。
所以本丸博的跪坐圖是怎麼回事???總不可能重新畫了一個版本???
▲▲ 對肉球的處理很像鍔工師雕刻浮雕裝飾圖案的做法,是這遊戲屈指可數對本體處理看上去不像是玩具模造刀的。下圖左邊鍔上的圖樣叫葵紋散,和梨子地刻小サ刀拵的配套鍔是同一種設計。不過其實南泉三個鍔上的雕刻都很華麗。
輕裝款式為浴衣,下擺圖案是二重蔓牡丹,和取材於金襴包刀拵的襯衣紋樣相同(他的兩個刀袋之一也是這個紋樣——見上文“裂の美作品リスト”條目,菱取和刀袋的菱地是一個意思,指面料底紋是菱形暗紋圖樣)。
總的來說是考據過的,優點是寫實有質感,但元素融合得有點粗暴吧。
(五)極化書信
提到了南泉斬貓公案和自身逸話的差異,以及尾張家歷代用作差料的史實,雖然寫得乏善可陳,但是和我預期的差不多(你刀就這點水平了,不指望他們達到『碧巖錄』公案似的水準),這信算及格了。
※ ※ ※
主引用: • 南泉一文字の史料,拵と尾張徳川家の刀剣 (參照其他資料修正添補了一些內容) • 刀剣ワールド • 古裂會 • 感謝 Grejpfrut·Cvet 的補充資料。 ◎「金鯱叢書」佐藤豊三 第15輯:室町時代の贈答刀剣について 第31輯:名物刀剣の銘について 第35輯:小サ刀考